誕生編

第一話 誕生

登場人物紹介 首都高速用語解説

僕が生まれるまでのあらすじ…。
父の父つまり僕の祖父が山形の尾花沢から東京に移り、父が生まれました。
祖父は戦時中、軍から召集令状が来ますが、旭光学(今のペンタックス)で軍艦の主砲の照準や陸軍で使う双眼鏡などを作っていたために、免除されました。
戦後その旭光学から独立し、板橋に自社ビルを建て、光学機器の塗装をする有限会社志村金属塗装所を設立しました。
三男だった父は、東洋大学で知り合った母と、学生運動がさかんな中、結婚し祖父の会社の2階に住むことになりました。

誕生編とは…?
生まれてから卒園するまでのお話しです。

1971年7月2日
東京板橋にある日大病院というとても大きな病院で僕は、産声をあげた。
両親にとっては初めての出産ということで、信頼できる大病院での出産となったわけだ。
生まれてくる僕は、当然のことながら産み落とされる病院を選択することができない。
あっちの病院で生まれたかったな〜。
などというわがままな赤ん坊は世界中どこを探してもいないはずだ。
こっちは生まれたくて生まれてくるわけじゃない。
三千グラムを超える大きく元気な赤ん坊だったそうだ。
最初は母乳で、しばらくして粉ミルクで育ったそうだ。
粉ミルクの缶が山積みになっていたことだけは記憶している。
「今日からオムツをやめるから一人でオトイレに行きなさい」
とトイレデビューしたことははっきりと覚えている。
ズボンとパンツをずり下ろして、平安時代の貴族が歩くように、ズリズリ引きずってトイレに行った。

物心ついたとき、僕は祖父の会社の2階に住んでいた。
冬はガタガタした古いサッシから隙間風が入りえらく寒かった。
夏はクーラーもない時代なので、これまたえらく暑かった。
テレビはまだ白黒が主流で、「ウルトラマン」の再放送や「ガメラ対ギャオス」を見て、興奮していたのを覚えている。
学生運動の映像は、かなり怖かったと記憶している。
中でもヘルメットをかぶった男性が地面に何人も寝そべっていて、その上をダンプカーがひき殺そうとしている映像はかなりショッキングだった。
物心ついたばかりの僕には、なぜヘルメットの男性たちがひき殺されなければいけないのか理解不能だった。
その男性たちはものすごく顔を引きつらせていて、苦しそうな顔をしていた。

カラーテレビが入ると、「あしたのジョー」や「アッタクbP」「巨人の星」「デビルマン」「ボルテス5」「マジンガーZ」「タイムボカン」などアニメ黄金時代?の番組をかたっぱしから見ていた。
チャンネル権は当然親には無く、僕にあったが1つ下の弟とのチャンネル争いは熾烈を極めた。
そのたびに真っ赤な顔をした父にポカっと頭を殴られ、騒動は収まる。
「お兄ちゃんなんだから、譲りなさい」が母の口癖だった。
これはどこの家庭でもそうだったようである。
僕の家庭は、第一次ベビーブームの世代が生んだ典型的な第二次ベビーブーム世代の家庭だった。

朝8時になると隣のプレス屋のガッタン、ギーギーという音が絶え間なく聞こえ、そのたびに家が少し揺れた。
当時の板橋はどこもかしこも工場だらけだった。
数年後に引っ越すことになる今の実家もこの時はまだ、いくつもの鋸型の黒い建物が並ぶ製鉄所の巨大な工場だった。
父は祖父と一緒に仕事をしていて、仕事場が1階なので通勤時間5秒というなんともありがたい環境で仕事をしていた。
だから、お昼には父だけ2階の自宅へ帰り母の料理を僕と食べた。
13時になるとまた1階へ下りて父は仕事をした。
週末になると父は北アルプスや南アルプスなどの山々へ出かけ、母を心配させた。
その模様は、「TBSラジオ永六輔7円の歌」に母が投稿して全国へ知らされた。
そうなると父は山仲間に止められ、少し登山を控えたようであるが、ほとぼりが冷めると「東北の山は標高が低いから安全」などという勝手で自分に都合の良い理屈を付けて母を納得させ出かけた。それで母はしかたないという感じで諦めたようだ。

書棚には「岳人」や「山と渓谷」の雑誌がずらりとならび、僕はそれを番号順に並べて遊んだ。父はその頃バカが付くほどの山好きで、僕と弟に山に関係する名前が付けられていたのは、そのせいだとしばらくして気づいた。
当時の僕は山のことなんて何も分からず、父の趣味で付けられた名前(和峰)がなんとなく恥ずかしかった。

(ここの2階に住んでました)

次回予告
幼少期の僕の遊び場は屋上でした。そこの家庭菜園にはダンゴムシとベンジョムシがたくさんいました。
第二話 ダンゴムシとベンジョムシ