中国の古い記録より、大撓が作者であろうといわれています。紀元前14世紀頃の甲骨分の発見により、日を記述するための記日法として干支は用いられていたことがわかりました。その後、干支を年に配当して記年法として用いられ始めました。
干支は中国でも日本でも同じものが用いられ後世、改暦などにより年や月の日数は変わっても干支だけは連綿として日に配当されて現在に至っています。
歴史的には、干支は日に対するより年に対して重要に用いられてきました。日本の歴史上、60年以上使用された年号は昭和以外にはないので、たとえば、天平乙酉の年といえば、天平17年(745年)のことだとすぐわかります。また、天武天皇即位の際の内乱は、その年の干支をとって壬申(じんしん)の乱と呼ばれ、明治維新の際の戦乱は戊辰(ぼしん)の役と呼ばれるように干支はつかわれてきました。
干支という文字は、「干」が幹、「支」が枝から出た語です。
さて、紀元前14世紀頃から、干支と十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)が組み合わされ、その最小公倍数である60の周期で日を数えるのに用いました。十干と十二支をを組み合わせると、甲子を最初に癸亥まで60個の干支ができます。これを干支と言います。
十干と十二支には陰陽が配置されていて、陽干と陽支、陰干と陰支が結びつきます。(陽干と陰支、陰干と陽支が結びつくことはあり得ません) |